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海のいのちと前近代性

 立松和平さんの「海のいのち」は,6年の教科書にのっている物語です。
 この物語はすばらしい作品だと思います。でも,周囲の方々のこの物語を褒め方に,どうにも違和感を感じています。
 その点を今回はお話します。

 

1 自分の夢を追求すること

 この物語の主人公の夢は一人前の漁師になることです。具体的には父親よりも優れた漁師になることです。
 夢や目標の実現に向けて生きることは,現代では称賛される生き方です。
 「自分探しの旅」をしている方も多いとのこと。
 その点,少年期に自分の生き方を決めて歩み始めている少年も褒められてしかるべしでしょう。
 このような成長物語は,日本でいえば明治以後求められる個人像となりました。
 「立身出世」してこそ一人前という考え方です。
 この考え方の枠組みは今も変わっていないと思います。
 ただし,「ナンバーワンよりオンリーワン」と目標が他人との競争ではなくなりつつあるありますけれど。
 目標に向かって歩み続けるという点は,変わっていないと思います。

2 環境保全と前近代社会

 主人公は漁師の修行としてある老漁師に弟子入りします。父親が亡くなっているので信頼できる方を頼ったのですね。
 この漁師は自然を保全し,その恵みを受け取るという考えの持ち主です。
 主人公はこの漁師を尊敬し,漁の技能を習得していきます。
 この考えは,どうやらこの漁村で受け継がれてきた考えのようです。
 さて,この物語のクライマックスでは,主人公のもつ個の実現と自然保全という二つの考えが鮮やかに対立します。
 あれっと感じた方もいるでしょう。
 個の実現と自然保全は別に対立する考えではないのでは,という点に引っかかる方は多いと思います。
 原理的には対立しないはずなのです。
 しかし,ここでの自然保全が漁師村の生き方礼賛になっていまして,それが対立を引き起こすのです。
 つまり,漁師が一人一人が集団の一員として自然のサイクルの一部に組み込まれ,その仕組みの一部として生きていくということになっているのです。
 これは集団のルールを個に優先する前近代社会のルールです。卓越した個というものは,この仕組みに必要ありません。
 結果的に主人公は自然の恵みをいただく生き方を選択し,名もなき一漁師として幸せに生きていくのです。
 これを選択したことで主人公は一人前の本物の漁師になったのだ,という解釈をする方もいたのですが,これは主人公の目標そのものを取り換えていると思います。
 この考えを推し進めれば,主人公の当初の夢がまちがっていた,漁師というものがよく分かっていなかったというところいきそうです。
 この作品で環境と共に生きることや自然との共生のすばらしさを語ることをまちがいとは思いません。
 自然との共生はすばらしいと思います。
 ただ,それが前近代者会の生き方を礼賛するとなると,それはちょっと,と思うのです。 

3 人生の幸せについて

 その人が満足すれば幸せなので,人の幸せを他人が語ることは無粋と分かっていますが,この作品はちょっと見えにくい毒が入っていると思います。
 よい芸術作品には毒があるものですから,そのこと自体は作品の評価には関係ないと思います。
 しかしながら,少し前にあったある種の江戸時代の高評価,「江戸は世界一のエコな都市だった」が,江戸時代が自由のない身分社会や差別温存の社会であったことを覆い尽くすことではないのと同じように,自然保全が個の生き方の自由を覆い尽くすことは,何か違っていると感じるのです。
 子ども向けの物語に目くじら立てるなと叱られそうですけど。

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