ギスカブログ

 読書しながらスモールライフ「ギスカジカ」のブログ

MENU

アドラー心理学の共同体感覚

アドラー心理学の有名な課題の分離と対になる考えに共感覚感覚があります。

課題の分離については以前述べたことがあるのでこちらをご覧ください。

gisukajika.hatenablog.com

1 課題の分離の問題点

さて、課題の分離とは、自分の課題と他人の課題をきちんとわけてとらえること。

そして、他人の課題には足を踏みこまないし、自分の課題を他人に取り扱わせないことでした。

そして、課題を分離することで、各人の自由が実現するというのがアドラーの考えだったのです。

当然のことながら、ここでもう一つの疑問が起こります。

課題を分離し、各人の自由を保障するのはいい。

しかし、それは個人を分断する考えではないか。

社会を分断し、個人主義いや孤立主義を招くことになるのではないか。

こういう疑問です。

確かに、あなたはあなた、私は私。

こういう考えに行き着きそうな考えではあります。

必要な支援はするけれど、最終的に解決するのはあなたですよ。

こういわれると、最後の最後に突き放されたような感じを受けることでしょう。

アドラーはこの疑問にどのような答えを用意しているのでしょうか。

2 共同体感覚とは

これに対してアドラーは、共同体感覚という用語で説明しました。

共同体とは何でしょう。

学校やご近所、会社、仲良しサークルでしょうか。

通常、自分が所属している共同体とは、このような身近なものを指すと思います。

しかし、アドラーのいう共同体は違います。

もっと、広く大きなものです。

例えば、地方公共団体とか国とかでしょうか。

違います。

もっと広いものです。

では人類全体でしょうか。

違います

アドラーのいう共同体とは、過去から未来、そして宇宙全体まで含んだ、文字通り「すべて」なのです。

………。

大過ぎてわかりませんね。

しかし、私にもわかるこういう説明がありました。

例えば、学校などの小さな共同体の中で居場所を失い、そこの人たちを仲間と見なせなくなったとします。

実際、児童生徒の時代には、このような場合に、自分が世界で一人だけという孤立感を持ちがちでしょう。

しかし、共同体というものは、それ一つではありません。

学校以外にも小さな共同体はあります。

そして、地域社会や国家などもっと大きな共同体もあります。

自分に害をなすような共同体とはかかわりを断ち、別な共同体に所属するようにする。

自分をごまかして、居場所のない共同体に所属し続けるのは、他者のために生きることになり、不自由な生き方になる。

こう考えるのだそうです。

問題が起こったときは、より大きな共同体のことを考える。

そうして目の前の共同体にのみとらわれることがないようにするのだそうです。

しかし、こうなると自分に利する共同体を探していけばよい、とこの考えを矮小化してとらえる方がいるかもしれません。

もちろん、そのとらえ方は違います。

共同体に所属するということは、そういう自分中心に共同体をとらえることではないのです。

共同体に所属するとは、みんなのために自分が何ができるかを考え行動することです。

自分の利益を考えて所属するものではありません。

所属感を得るためには、個人の貢献が大切になるのです。

アドラーはこういいます。

所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自ら獲得していくものなのである。

なおかつ、自分は世界の中心ではないことを理解することが必要です。

地球儀上の国を考えてみてください。

日本から見れば日本が中心ですが、フランスから見ればフランスが中心です。

このように所属しているそれぞれが中心のように見えて、実は全員が中心であり、つまりは、全員が所属している一員として平等である。

このように共同体をとらえて、自己中心の考えから脱することが必要になります。

アドラーのいう共同体感覚とは、このようなものでした。

3 総評

共同体感覚の議論を始めた時に、アドラーの下から離れた研究者が多くいたそうです。

その方々は、これは心理学ではなく思想だ、と感じたのだそうです。

確かに、共同体感覚という構成概念は、実証できるものではないでしょう。

しかし、心理的に充実感を失い、疎外感を持って生きている人には、有効に働くことがあるのではないかと思いました。

別の共同体に所属する、より大きな共同体に所属し貢献している。

そう考えるだけで、心理的に落ち着く方もいることでしょう。

共同体感覚は、上下関係を否定し横の対等な関係を主張します。

そこからアドラー心理学で特徴的な「ほめもしない、しかりもしない」という考えが生まれてくるのです。

この考えについては、次巻の「幸せになる勇気」で詳しく議論されています。

さて、より大きな共同体に所属しているという感じ方だけを取り上げると、全体主義に通じるように見えます。

しかし、アドラーには「課題の分離」という自他を明確に線引きする考えもあり、これらが対になっているため、単純に全体主義に帰着するということはありません。

私には、これらの考えは個人が幸福に生きるために、どう考えどう行動するべきかを考えた結果のように思えます。

アドラーの言葉の一部を拡大解釈することは、妥当な理解から遠のくことになる。

そう強く思います。