ギスカブログ

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アドラー心理学の目的論

臨床心理学の源泉の一つにアドラー心理学があります。

アドラーの心理学は、フロイトユングとはずいぶん違っています。

大きな違いの一つに、目的論があります。

この目的論は、アドラー心理学を特徴づける重要なポイントです。

1 原因を探らない

トラウマという用語を聞いたことがある人は多いでしょう。

フロイトが用いた言葉で、心的外傷と訳されます。

あると心に痛みを感じる過去の経験です。

あることができない、あることに不安を感じる。

そういう心理的に不健全な状態にある原因をフロイトはトラウマに求めました。

そして、そのトラウマを意識し克服することで、心理的に不健全な状態を乗り越えるとしたのです。

このようにトラウマは一種の原因論となっています。

しかし、アドラーはこの原因論に与しません。

原因にこだわることは、問題を解決することに対して本質的ではないと考えました。

原因ではなく目的を考えること。

このことが人間を幸福にすると考えたのです。

2 目的が現在の状態を作り出す

「嫌われる勇気」は、青年と哲学者の対話形式で記述されています。

青年が、原因論の例として引きこもりの男性を取り上げました。

引きこもって家から出ない男性、友人の男はその原因が過去の経験にあると言いました。

しかし、相談を受けた哲学者は、過去が原因ではないと言います。

引きこもる目的があるのだと言うのです。

一体、どういうことか。

引きこもることによって、周囲の同情を得る。

自分の承認欲求を満たす。

心理的安心感を得る。

この状況を変えたくない。

そういう目的があって、現在の状態を維持している。

こういうのです。

つまりは、本人の内部の問題。

こういうわけです。

補強する説として、もし過去の虐待やいじめ等が原因であれば、同じ経験をした人はみな引きこもりになるはずである、と言います。

しかし、そんなことはない。

つまりは、本人の認識にこそ原因がある。

こうたたみかけます。

厳しい見解ですね。

3 ライフスタイルと勇気

しかし、この目的論にこそ希望があると哲学者は言います。

原因論なら過去の経験がすべてです。

現在の状況や未来の状況も、過去の経験によって決められています。

そう。

原因論決定論だというのです。

しかし、目的論ならそうはならない。

アドラーはそう考えたのです。

目的論なら、目的を変えれば現在の、そして未来の状況も変えられる。

まったく違う結論になるのです。

本書で相談をしている青年は、それになかなか納得しません。

自分の性格を例に反論します。

自分は引っ込み思案である。

友人のように明るく積極的にはなれない。

それは生まれつきの素質が関係しているのではないか。

そう反論するのです。

それに対して哲学者は、それは違うと断言します。

青年が変われないのは、青年が変わらないと決断しているからだというのです。

一歩踏み出さない現在が安心と安住の地である。

だから、はっきりと意識していないにしろ、自分で自分の状態を選んでいる。

そう断言します。

アドラー心理学では、性格をライフスタイルと述べます。

スタイルであるから選択できる。

スタイルであるから現在の状態は選択の結果である。

そして、スタイルの結果であるから選択し直せるというわけです。

しかし、選択し直すにはあるものが必要です。

勇気

これの欠如こそが現在の状態を作り出しているのです。

アドラーの心理学が、勇気づけの心理学ともいっていい。

そして、ライフスタイルの選択は、他人ではなく自分自身でしなければならない。

だからこそ、一歩踏み出す勇気が必要なのです。

4 総評

アドラーの心理学には、誤解を受けやすい面があると思いました。

それは、環境の維持です。

つまり、社会状況が不適切であったとして、例えば虐待等で虐げられているやいじめられているという状況下であったとしたときに、その原因を外部に求めるのではなく、個人の内部に求める方向に働くのではないか。

こういう懸念です。

こうだとすれば、不適切な環境は維持や強化されることになります。

そして、解決はしない。

このようなことにならないかということです。

しかし、これはまったくの誤解で、アドラーは客観的な事実と主観的な認識を区別しています。

アドラーは主観的な認識による状況の変化を述べているのであって、客観的事実について述べているのではありません。

不都合な社会的状況はもちろん健全化しなければなりません。

それはそうしていくべきなのです。

アドラーは認識による不健全な状況の変容を述べたのであって、我慢や隷従を述べたわけではないのです。

ここに注意が必要でしょう。

また、アドラーの考えに対して、青年の口を通してですが、厳しいと述べる場面がありました。

個人の決定にすべてを起因するというのは、やや自己責任論につながりかねないところがあります。

すべてを個人のせいにする乱暴な議論は、もちろんアドラーに意図するところではないでしょうが、勇気こそが必要という考えは厳しいといえば厳しいといえるでしょう。

しかし、そこに人間に対する大きな信頼があるようにも感じます。