アドラー心理学を世に広めているベストセラー「嫌われる勇気」を再読しました。
前回読んだ時は、臨床心理学に詳しくなかったので、何となく読みとばしていたところが多かったということを再認識しました。
よく読んでみると、アドラー心理学の基本的な概念をよく説明している本です。
さすがは京都大学の哲学者。
プラトンの対話篇のような形式になっているのは、ギリシア哲学を専攻していたためなのでしょう。
ソクラテスの対話篇との違いは、ソクラテスがどんどん質問して相手は無知をさらけ出すのに対し、哲学者が質問に答えながら質問者の認識を変えていくという点にあります。
攻守交代みたいな感じです。
さて、再読して気になった点を多くあるのですが、今回は1点にしぼって述べます。
それは、課題の分離です。
課題の分離というと、一つの課題を小課題に小分けして、スモール・ステップで解決していくようなイメージを持ちがちですが、こういうことではありません。
ある課題が誰の課題であるか、ということを明確にすることです。
人々は悩みを抱え、そのために不安やストレスを感じ、カウンセリングを受ける。
これが一般的なクライエントの状態でしょう。
この悩みは、別の言葉でいえば解決すべき課題です。
往々にして、クライエントは真剣に悩んでいるのですが、本来自分が解決すべきでない課題を悩んでいることが多いのです。
例えば、上司と折り合いがよくないとします。
上司が感情的に指示を出す場合は、指示をこなせばよい。
感情的になるのはこちらの問題ではなく、上司の側の問題である。
こう考えるのです。
また、子供の成績が上がらない。
子供の成績は子供の問題であり、親の問題ではない。
支援はするが、結果の責任は子供に帰する。
こう考えるのです。
割り切りがすごいと思います。
しかし、他人の問題を自分の問題と誤認することで、抱えなくともよい課題を背負い心を病んでしまう人は、実際に多くいます。
それが誰の問題であるかを明確にすることが、心の安定につながるのです。
一理ありますが、本書では予想される反論を登場人物にさせています。
それは、このような考えはあまりにも個人主義である。
人は人、自分は自分という考え社会に蔓延すれば、人々は分断されてしまうのではないか。
こういう批判です。
アドラー心理学は、一名を個人心理学といいます。
この反論は、アドラー心理学の核心をついたものではないか。
そうともとれそうです。
ですが、この批判は的を射てはいません。
アドラーは共同体をとても大事に考えていたそうです。
アドラーの共同体の考えを述べると「課題の分離」からは離れてしまうので、今回は述べませんが、個人の分断がアドラーの目的でないことは確かです。
なので、課題の分離をすると、本当に社会は分断されるのか。
このことについて考えてみます。
実際の社会生活では、誰かのためを思って行ったり、話したりすることがとても多いと思います。
また、そうしている人を人格者、思いやりのある人などと褒めそやすこともよくあります。
しかし、ですね。
他人のためにしたことが、結果的によかったかどうかと自分の経験を振り返ると、案外そんなことはなかったことに気づきます。
少なくとも私はそうでした。
縁の下の力持ちなんて、なるもんじゃないと何度思ったことか。
返って、役割を決めて明確に分業した方が、後腐れなく、気持ちよく終われたりするものでした。
私の実感としては、課題の分離をした方が、個人主義じゃなくて協働主義になる、結果的にそうなるという意味でですが、と思います。
人の分と思っていた方が、気持ちよく手伝えるし、自分の分を手伝ってもらったら純粋に感謝をします。
人の仕事が終わらなかったのは、自分にも原因がある。
こう考えると、どれほど心が不健全になることか。
また課題を分離すれば、後腐れもなし。
この場合の後腐れとは、恩とか義理とかそういうものです。
必要ではなかった助けで、恩とか義理とか感じると、それを返すのがけっこう大変なんです。
返しをするくらいなら、助けはいらなかったなあ。
冷たいように思うかもしれませんが、実際の生活でこういうことは誰もが感じていると思います。
その場できれいに精算した方が、長い目で見るとよかった。
そういうことの方が、もう圧倒的に多いのです。
自分のためだけじゃなく、他人のためにも「課題の分離」をすべきです。
本当にそう思います。
さて、書名「嫌われる勇気」ですが、課題の分離等をすると人に嫌われるかもしれないが、その勇気を持とうという意味でもあります。
これで嫌うような人は、人間についての理解が浅薄なのだからあまり気にしてもしょうがないように思います。
それこそ、その課題は、嫌った相手の課題なのです。
臨床心理学の本を何冊も読んできて、ようやくアドラー心理学の主張が分かってきました。
しばらく他の本を読んでから、また読み返そうと思いました。
その際にも、新しい理解ができると期待しているからです。