おりしも、本書を読了した日は参議院の投票日でした。
そんな日と関係させて紹介する本として、適しているのかいないのか。
ちょっと悩みました。
何を読んだかといいますと、古典的な名著「プロパガンダ」です。
選挙と誘導的な宣伝では、ちょっと悪意がありすぎと感じられるでしょう。
まあ、ほんとにたまたまだったのですが。
さて、本書は古典的ということで古くさいととらえる方もいるでしょう。
しかし、しっかり現代にも通じる内容でした。
ちなみに、発行されたのあの「大恐慌」の数年前です。
広告が大衆に届けられ始めた時代の本ということになります。
では、内容を紹介していきます。
現在「プロパガンダ」にいい意味を感じる人は少ないでしょう。
誘導とか世論操作とか、そういう意味を感じます。
特定の意図をもって大衆を操るという感じです。
ですが、元々の意味にそういう感じはなかったそうです。
元々は、カトリックで布教する省庁の名前でした。
多くの人々に正しい事柄を伝える。
そういう意味を持っていたのです。
しかし、ちょっと考えてみてほしいのです。
本来、情報は伝える側と受け取る側のどちらに主体性があるのでしょうか。
どちらも主体的であろうとすることができますが、より健全な情報利用ができるのは受け手が主体性をもったときでしょう。
情報を集め、検討し、自分で判断する。
そこに主体者としての健全な姿があります。
しかし、プロパガンダは発信する側が主導権を握ろうとします。
そこにどうしても操るという感じが残るのです。
現在のような付帯的な意味が加えられていったのには、こういう経緯があったように思います。
さて、プロパガンダには様々な手法があります。
最も原始的な方法は繰り返しです。
ウソも100回言えば本当になる。
誰がいったかしりませんが、現在でもたまに聞くフレーズです。
語った内容を検証することなく、繰り返し伝える。
シンプルですが、侮れない影響力があるとのことです。
次に、語った内容に価値を感じさせるという方法もよく使われます。
どういう方法かというと、簡単にいうと権威を用いるやり方です。
どこかの偉い学者が褒め称えている。
こういう姿を見ることで、褒められている内容はきっと立派で正しいことなんだろう。
そう思い込ませます。
決して、内容を自分で調べたりはしません。
あんな偉い人が認めているのだから、問題はない。
そう考えるのです。
これは、現在でもよく見かけます。
大学教授というだけで価値があるような気がしてくるから不思議です。
案外、まったく別の専門家である大学教授が自分がよく知らない分野、一般大衆と変わらぬ程度の知識しかもたない分野、の技術を利用した製品を褒めている。
実際には、こういう状態の広告もあるのです。
メッキを塗った状態といわれても仕方がありません。
その他、受け手の情感に訴える方法もよく使われます。
小さい子供や動物とふれ合っている姿。
そういう見て和むような映像もよく使われます。
しかし、こういう映像はただ見た目がよいだけで選ぶと落とし穴もあるようです。
福祉の予算を削減しようとしている政治家が子供と仲良くしているポスターを掲示している。
一見よさそうですが、その政治家の主張を知ると逆に反感が強まってきます。
無難なポスターよりも、情感に訴えたポスターを作ったがために、多くの反対を集めてしまう。
感情利用は、適切に行わないと逆の作用も起こしてしまうのです。
本書では、政治や商業だけでなくあらゆる分野でプロパガンダを利用することができると述べています。
一例として、教育が挙げられていました。
これは学習者を誘導するというのではなく、保護者や教育政策を決定する政治家などに向けたものでした。
保護者の協力や予算の獲得のために有効に使おうという趣旨です。
少し「それでいいのかな」と悩むところではありますが、教育の実際を知ってもらったり日々の教育活動を分かってもらったりするためは必要なのかなとも感じました。
プロパガンダは古典的な名著で、細かな宣伝のテクニックなどはあまり述べられていません。
実用書として見れば、現在では不十分だといえるでしょう。
しかし、プロパガンダとは何か、その理念や仕組みを理解するには十分な著作だと思います。
私も、「そういうことか」と感じたところが多くありました。
社会心理学に興味がある方にも勧められる書籍ですし、すでにこのジャンルに詳しい方には、温故知新の気持ちで読まれるのもよいでしょう。
新しい発見ができる本。
そういうタイプの本です。