21時ごろに外に出ました。
クルマから忘れ物を取ってきただけなんですが、ふと見上げると夜空がきれいでした。
天の川がよく見えます。
カシオペア座がずいぶん上にありました。
そして南に目を向けると、ひときわ輝く星が。
火星でしょう。
とてもきれいでした。
たまに夜空を見上げるのもいいなあ。
家に戻って家族に火星が見えたと告げると、
「夕方見えたのは、火星?金星?」
と、あさって方向の返事です。
何を言っているんだ?
もっと火星に興味を持てよ。
とは思いましたが返答しました。
「金星だよ」
というと、ウソつかなくてよかったとのこと。
誰かに夕方見えた星を金星といったのですが、自信がなかったのだそうです。
まあ、そこまではいいです。
で、私が見てきたのも金星じゃないのといいます。
「あのね…」
と言いかけてやめて風呂に入りました。
たぶん、頭の中に太陽系のイメージがない…。
そう思ったのです。
言いたかったことは「内惑星が夜見えるわけないだろう」です。
ですが、これを言ったばかりに口げんかになってもなあと思ったのでした。
こういう場面に出くわす度に、人間と人間の相互理解は難しいと思うのです。
ミラーニューロンじゃないですけど、人間は自分が分かっていることは相手も分かっていると思いがちです。
少なくともかつての私はそうでした。
そういう想定の下に対話を続けていたのですが、ある瞬間、自分と他人は世界を同じように見ていないと気づくことがあるのです。
その瞬間に成立していた対話が砂上の楼閣であったことに気づき、どこまでが分かり合えていたのか不安になってしまいます。
自分が気づいたケースで書いていますが、相手が自分に同じような感じを持つこともあるでしょう。
いやきっとあったはずです。
人間は、脳内の知識が同じということはありませんから。
こういう瞬間を経験すると、自分がどうしようもなく孤立していることに気づくのです。
自分は自分、他人は他人。
こういうことは頭で分かっていても、どこか同じだと想定している。
そして、想定しないとやってられない。
人間の感情には、そういうところがあると思います。
彼の青はぼくの青ではないかもしれない。
そういう検証しようのない事柄に人間のコミュニケーションは寄って立っている。
とはいいながらも、その不安定さを基盤としなければ相互理解は成立しない。
私は時々そういうことに寂しさを感じてしまうのでして、この時がまたもやその瞬間なのでした。
風呂から上がって、冷静に話しました。
なぜ、金星は夜見えないのか。
簡単な作図で、説明は終わりです。
作図というか太陽系の図を書いただけです。
家族は、そんなことに興味がないといった態度でしたが、それでもこちらの話に付き合ってくれました。
途中、途中でそんな興味のない姿を見て、やっぱり話すんじゃなかった、と何度か思いましたけれど。
でも、自分と他人の知識をいくらかはそろえておきたかったのです。
人間はずっと孤立しているわけではなく、相互理解はいつでも可能である。
そう思いたかったのだと思います。
私は孤立や孤独が嫌いなんですね。
改めてそう感じました。