みなさん仕事は,好きですか。
勤め人として働くことに疲れると,私は夏目漱石の「坊ちゃん」を思い出します。
この小説に,勤め人に悲哀がよく表れていると思うからです。
今回は「坊ちゃん」を題材に,社会の余裕のなさについて話します。
1 「坊ちゃん」の生き方
「坊ちゃん」は,おもしろさをねらった小説と思うのです。
「吾輩は猫である」もそうですが,まずは読者を笑わせようとしたと。
歯切れよい文体もそうですし,極端な性格設定もそうだと感じます。
東京舞台の時は,それでよかったと思います。
こういう人いるねって感じで読んでわくわくします。
実際,東京編こそが「坊ちゃん」人気の源泉だと思います。
四国に行ってからの「坊ちゃん」は,それほどおもしろくありません。
少なくとも私にはそうです。
いろいろ理由は考えられますが,奇人変人度が高まっているからのように思います。
つまり,東京にいるときよりは共感できなくなっている。
例えば,毎日温泉に行くとか。
たぶん地元の人にとっては相当ぜいたくです。
勤務時間内にも行って,注意を受けてましたね。
勤務先への不平不満はともかくとして,金銭感覚や勤務態度はちょっと笑えません。
勤め人として,どうかなあって思うのです。
これを爽快な行動とは感じにくいのです。
現代の感覚といわれればそうですけど。
2 社会人としての「坊ちゃん」
自分の信念を曲げずに行動するというのは,称賛すべきことでしょう。
でも,「坊ちゃん」のやり方は,ストレート過ぎです。
そして,周囲に文句ばっかり言っているような気がします。
そんなに嫌なら,すぐ東京に帰ればいいのに。
結局,彼の信念は通りません。
というか通そうと何かをせず,自分の正義を語るだけだからです。
その点,山嵐のやり方の方が実際的でしょう。
職員会議での発言から,それは分かります。
だから「坊ちゃん」は,不満分子と分かっても軽く扱われます。
あいつは全然分かってないから,みたいな扱いです。
「坊ちゃん」は,他人の目を気持ちよいくらい気にしません。
そこにすがすがしさもあるのですが,利害関係のある人にはたまったものではないでしょう。
まあ,迷惑です。
庇護者なら笑ってすませるでしょうが,その他の方は敬して遠ざくがベストです。
山嵐は同志と思っていたのでしょうか。
せいぜい協力者ぐらいかなあと思います。
教師という職にも合ってなかったのかもしれません。
落書きや数学の難問,「いなご」なども,たちは悪いですが生徒からの親しみ,ともとれます。
一応叱るは叱るでしょうが,生徒と打ち解けるきっかけにはなったと思うのです。
「坊ちゃん」には,そんなところがありません。
あくまで,四国松山の不満の1つです。
東京とちがって楽しく感じられないのは,始終不平を言ってばかりだからと思います。
3 社会の余裕と「坊ちゃん」
とはいうものの,社会の一員として「坊ちゃん」のような人もあると思うのです。
こういうがんこで真っ直ぐな人がいることで,もの分かりがよく道理が引っ込んでばかりの世の中が修正されるってことはあると思います。
「坊ちゃん」は東京に戻り,電車の運転手をしました。
乗客ともめなければいいと思いますけど,決まり切った路線を決まり切った時間で運行するのは合っているような気がします。
今,「坊ちゃん」のような人がいたら,社会や会社に受け入れられるのでしょうか。
はじき出されるような気がします。
受け入れるには,社会や会社に余裕がないといけないでしょう。
こんな人も笑って受け入れる余裕。
そんな余裕は,少なくなってきていると思います。
弱者へのセーフティ・ネットは,確実に明治よりは手厚くなっているのですが。
「坊ちゃん」のような人を楽しめた社会の方が,幸せだったと思います。
そんな社会が,また来ないかなあ。