友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻と親しむ
と、啄木の短歌を挙げましたが、みんなより出世も遅れてしまって、恥ずかしい毎日を送っています。
負け犬の遠吠えと思って聞いていただいてかまいません。
でも、出世って実力だけじゃないんだなあと思います。
仕事ができるとかできないとかはあまり関係なくて、上司というか評価する人によく思われることが大事なんですよね。
ここまでくると、あまり出世しようと思わなくなるのですが、世間の目が嫌だなあと感じています。
あの人、ダメな人。
そう思われても、他人が思うことなのでどうすることもできず。
それだからといって、仕事をやめるというくらいまでの強い気持ちにもなれず。
まあ退職まで後少しなので、ぼちぼち仕事をしていこうかなあ。
こんなくらいです。
自分の強みを活かせる仕事なんていうのは、幸運な人だけで人がやりたくない仕事がまわってくるのが普通です。
こんなことしたくてこの仕事選んだのかなあ。
とは思いますが、仕方がありません。
それでそんな感じで回ってくる嫌な仕事ですが、やっても評価はまあされません。
かえってやらないと悪い評価がついてまわるという感じですかね。
ほんとくだらない。
閑話休題。
この啄木の歌って、どうなんですかね。
ダメ人間の歌のような気がするんです。
どこがっていうと、妻をだすところです。
友がえらく見えたことを、妻と仲良くすることで埋め合わせをしているんですけど、それってほんとうは埋め合わせになってないんです。
この二つ、別になんの関係もないですから。
つきあう妻がえらいと思いこそすれ、君はまず仕事でがんばりなさいよと声をかけたい。
妻はやさしいでしょうが、そこに逃げてどうする。
妻は仕事のことなんか知らないでしょうに。
というわけで、全然代償にもなってないし、たぶん明日も変わろうとしないし、その次の日も変わらないでしょう。
そういうことが想像されるわけです。
ダメ人間ですね。
でも、昭和までの文学ってダメ人間を許容するところがあったんです。
ダメなところを見せると、そんなことないよとなぐさめてくれる気風があったんです。
この歌って、そういうフォロー待ちなところを感じます。
社会に余裕があったんですね。
今はそんな余裕がないので、ダメなところを見せても、「そう、まあがんばってね」とか「みんなそんなもんさ」とかそんな感じです。
他人をかまう余裕がなくなっているんです。
そんな時代になぐさめ待ちな歌よまれてもって感じです。
作品の価値は時代によって変わります。
これも受容理論ですね。
しかし、なぐさめられなくても、弱音をはきたい気持ちは誰でももつことでしょう。
まあ、今日のわたしがそうなんです。
というわけで、来週からはしっかりしようと思いました。
今日は寝ます。