ギスカブログ

 読書しながらスモールライフ「ギスカジカ」のブログ

不都合な事実の受け入れ方

 氏原寛さん著「心とは何か」の感想の続きです。
 後半は抽象的議論が続くので,かなり難しい内容でした。
 その中で「一人称の死」と題されたところに興味を持ちました。
 今回は,このことについて話します。

1 死のプロセス

 キュブラー・ロスさんが述べた「死のプロセス」についての紹介がありました。
 ロスさんは,末期患者のインタビューを通して,この五段階を提唱したことです。
 その五段階とは,このようになります。
 「否認」
 「怒り」
 「取り引き」
 「抑うつ
 「受容」
 この五段階に興味を持ったのは,これが死に対してだけじゃないと思ったからです。
 つまり,自分にとって不都合な事実を向き合った時,この五段階でその事実を受け入れていく。
 そのように感じたからです。

2 五段階

 それぞれの段階で,どのように心は感じるでしょうか。
 「否認」は,そのまま否定でしょう。
 つまり,つきつけられた事実を認めない,それは違うと言い張ることです。
 おそらくは,様々な証拠,様々な論理展開を駆使して,事実を否定するでしょう。
 もし,不都合な事実が,事実認識の可否だけでしたら,この段階にずっととどまることでしょう。
 しかし,病気など事実認識にとどまらない事実も多くあります。
 そうすると,次の段階に進みます。
 「怒り」は,怒る対象が問題ですね。
 たとえば病気などは分かりやすいのですが,病気そのものに怒っても仕方ありません。
 病気の原因を作ったもの,病気を発見できなかったもの,病気を治せなかったものに対して怒るのです。
 これは正当な怒りである。
 そう信じて怒るのです。
 しかし,仮に責任を認めさせたところで事実は変わりません。
 事実は,事実だからです。
 次の段階が「取り引き」です。
 事実を認めるが,少しは自分に有利になるようにする。
 これが取り引きです。
 死の場合は,神と取り引きするのだとか。
 つまり罪を認めるから,あと数ヶ月延命させてください。
 こんな感じだそうです。
 不都合な事実についても,似たようなことが起きます。
 今までは全面否定でした。
 今度は認めます。
 ただし条件付きです。
 しかし,条件がつこうがつかまいが事実は事実。
 交渉でなんとかなるものばかりではありません。
 なので,次の段階に移ります。
 「抑うつ」は,もう事実の認定を争いはしません。
 事実を事実として受け入れています。
 しかし,心の整理ができないのです。
 とはいっても,外部に何かを求めてはいません。
 もはやそういうことが効果がないことを知っているのです。
 なので,自分の中に閉じこもっています。
 心の整理がついていないのです。
 整理がつくと,次の最後の段階に移ります。
 「受容」です。
 どんな不都合な事実でも,どんなことをしても変わらないとなった時,それを受け入れていくしかない。
 そして心の平静を保つ。
 こうなっていくのでしょう。

3 五段階の必要性

 外からながめれば,この五段階はむだともいえるでしょう。
 どうしても事実は変わらないのだから,最初から受容すればいい。
 それが効率的です。
 しかし,人間は感情の生き物です。
 そのような達観した人間は,まずいないでしょう。
 このような段階を経るからこそ,受け入れることができる。
 そう考えるべきなのだと思います。
 さて,この五段階を知っていると知らないとでは,不都合な事実に対する受け入れが変わってくると思いました。
 今,自分は○○の段階にある。
 そう思えば感情をある程度コントロールできると思います。
 また,他人への対応も変わってくるでしょう。
 今,この人は○○の段階にある。
 そうすることで,無用のトラブルを避けることができると思います。
 この難しい本の後半で,心に残ったことは別の方の紹介の部分。
 しかし,そういう読み方も読書の一つだと思います。