自己肯定感についての本を読みました。
自己肯定感という言葉は、存在そのものに悲劇的要素を感じます。
本のタイトルは「悩む心に寄り添う」、心理臨床家の高垣忠一郎さんが著者です。
内容にふれながら感想を述べていきたいと思います。
著者は、不登校の生徒のカウンセリングを多く経験した方です。
リストカットなどを繰り返す不登校生徒に寄り添おうとしてきたようで、そのことは行間ににじみ出ています。
子供を支援しようという強い気持ちを感じました。
ところで、不登校のことを以前は登校拒否といっていました。
登校拒否は実態を表さないので変えた方がよいという論調が強くなり、不登校となったのです。
いわく「学校に行きたくとも行けない」子供の気持ちを表していない。
まあ、アドラーが聞いたらなんていうか、などとは思いますが。
閑話休題、本書の著者は逆の論調で不登校は現象を表しているだけで実態を表していない。
身体が拒否しているのだから、登校拒否なのだといいます。
とはいえ、所記と能記の関係は恣意的なのだから、私はどっちでもいいような気もしますけど、問題の定義に関わることなので、論者は引かないのでしょう。
筆者は登校拒否の原因を自分の価値を否定しているからだととらえています。
自分はみんなと比べて価値がない、だからダメなんだ。
こうとらえているのです。
そして、学校は社会の人材を供給する場と化しており、人材として価値のないものに存在価値がない、こうとらえる子供が増えているというのです。
こういう認識は、もちろん妥当ではない。
その人間の価値は、今ここに存在していることで十分である。
他との比較で決まるものではない。
筆者はこう述べます。
その通りだと思います。
思いますが、登校拒否で悩んでいる子供に届くのでしょうか。
疑問です。
そもそも何ですが、自己肯定感は自分一人だけでは生まれない概念です。
自分の存在に疑問を抱かなければ、肯定も否定もないと思うのです。
自分が価値があるという観念は他者との比較から生じてくるはずです。
自己否定もそうです。
他者と比較することによって、初めて認識するのです。
自己肯定とよく似た用語で自己有用感というものがあります。
. これは、自分が他人の役に立ったという経験から実感されることが多いのです。
これだって、社会の中での判断です。
社会があるからこそ生まれた概念にとらわれ悩む子供に、社会から切り離して価値があると語りかけても通じるのでしょうか。
それで納得したとしても、その子はまた社会に取り込まれて生きていきます。
一人では生きていけませんから。
社会に再突入した時、その価値を維持していけるでしょうか。
さて、無価値とされた人には、いくつかのとるべき道があります。
一つは登校拒否のように、その価値を受け入れ自分を否定していく道。
もう一つは、社会の価値判断に反発し、社会を否定していく道。
また別の道は、価値基準の多様性を認め、自分が評価される場を求めていく道。
他にも道はあるでしょう。
おそらく本人にとって幸福なのは、自分または社会を否定する道ではありません。
自分が評価される場を求めていく道が幸福度が高いと思います。
そういう方向に気づかせていくことが周囲の人間がすべき支援なのではないでしょうか。
今ここに存在するだけで価値があるというのは、真実でしょうけれども、社会的存在であるわたしたちには、そうだけどだから何?という感想しか生まないような気がするのです。
求められた答えではなく斜め上の答えである。
そんな感じなのです。
さて、登校拒否、まあ不登校ですが、驚くほど低年齢から始まっており、様々な要因から起きています。
発達、家庭環境、養育環境、経済基盤等々。
人材にされ人間性が剥奪されたから、という理由以外にも多くの理由があり、この理由に不登校のすべて起因するというのは、実態に合っていないと思います。
その意味から私は登校拒否よりも不登校という現象で述べた用語の方がいいように思うのです。
そもそもカウンセリングを受けにいく方は問題意識が明確な方が多いと思うので、そこだけをサンプリングしても実態を十分に反映しているとはいえないでしょう。
さて、総じての感想なんですが、本書は抽象的な議論が多いように感じました。
記憶研究で高名なタルヴィングさんは、著作を出すに当たって編集者にこういわれたそうです。
私たちは実験や調査の結果を述べてほしいのです。初歩的な哲学議論を聞かされるのではなく。
本書への感想もこれに近いです。
もっと、不登校のカウンセリングの実際や具体を読みたいと思いました。