1 はじめに
大晦日です。
しめ縄を飾ったり,家の中を払ったり,そばを食べたりとそれなりのルーチンワークをこなしました。
それで,節目というわけでちょっと人生について思いをはせていたらある本が思い浮かびました。
史記の伯夷列伝です。
2 列伝第一
まあ,年代が古い順に並んでいるからですけど,列伝の一番最初に置かれています。
列伝というは,伝記だと思ってください。
高校の漢文の教科書の最初に載っていたので,もう暗記してしまうくらい読みました。
伯夷叔斉は孤竹君の二子なり。
今でも思い出せます。
この伝記が第一にあるのは,作者の司馬遷の思いが込められているという解説を読んだことがあります。
不遇な自分の立場を仮託したというものです。
どんなことかというとですね。
まあ簡単にいうと,この兄弟は道理を通して不遇な一生を送ったのです。
作者も道理を通して刑罰を受けました。
そこが似ていると,こういうわけです。
でも第一にあるのは,年代順のためだとは思うんですけどね。
3 天道是か非か
で,その作者の主張がこれなんです。
天道は,正しいのか間違っているのかとこういうわけです。
正しい行いをすれば報われる。
そんなことはないのが世の中なのか。
こう問われているのです。
たぶん現代だと,正しいとは何かとかそんなところから議論が始まるでしょうね。
まあ,正しさにのみ従って生きると原理主義者になるしかないんでしょうけど。
そして正しさが命より大事になると悲劇が生まれると。
とはいえ,宮刑を受けた司馬遷にそんなこと言っても受け入れられないような気もします。
それで,自分が人生について思ったこととはこうです。
自分が幸せじゃないのは,世の中がまちがっているからだ。
そう思って生きる限り幸せにはなれないだろう。
幸せは,苦労や義務の対価じゃないんだろう。
そもそも幸せになろうとして正しいことをしているのは打算だし。
正しいことがつらいと思ってる時点ですでに何かおかしいし。
そういうことは考えないで生きる方が幸せに近づくんじゃないか。
まあ,こんな感じです。
恨み辛みが生きる活力になることは否定しません。
それも生きる力を与えるものです。
ただ幸せな生き方じゃないんだよなあ。
史記って,こういうマイナスの活力を持つ人がたくさん出てくるんですよね。
司馬遷がそういう人に共感して生き生きと描いたのかもしれません。
で,最初の伯夷叔斉の兄弟に戻るんですけど,この二人はマイナスの気持ちで生きたわけではないと思います。
ワラビしか食べられないくらい困窮したっていいますけど,社会的成功をこの二人が願っていたわけではないでしょう。
伯夷の詩,命の衰えたるかなっていうのは,世の中を憂いているのであって世の中を恨んでいるのではないように読めます。
天道に恨み言をいっているのは作者だけなんですね。
よく読むと。
4 最後に
人生の成功とか不成功とか,考えるだけ無駄なんでしょう。
誰かに認めてもらう人生というのも,どこか変だし。
人生の終わりになって,みんなにちやほやされたい。
そういうのを追い求めるのもまた変だし。
大晦日にそんなことを思ったのです。
新年もそんな感じで暮らしていきたいと思います。