ラジオで筒井康隆さんの「残像に口紅を」が話題になっていると聞きました。
実験的な小説を書いていたころの作品です。
技巧に走りすぎていたという感想を持ったくらいしか覚えていません。
今回は,筒井康隆さんで一番好きな作品について話します。
「文学部唯野教授」です。
1 文芸批評の存在意義
文学を鑑賞,評価するのに理論が必要である。
そもそもこれがマストでしたら,読書が成立しない気がします。
まあ,自分の解釈を他人に共有してもらいたい。
その説得力を増すためにあるといい。
このくらいだったら分かります。
また,どうしてもこの作品が理解できないので手助けがほしい。
こういう理由で使う場合も分かります。
でも,批評理論が権威になってはいけません。
理論を知らない素人がなにかいってる。
これはダメです。
日本で文学批評が流行らなくてよかったと思いました。
日本って何でも作法とか道にしちゃって,師匠と弟子が生まれたりするでしょう。
おそらく硬直化して終わると思います。
2 様々な批評理論
批評理論って,そのものが小難しくってよく分からないものがあるんですね。
それから批評理論が支持を得るのは,ある具体的な小説の批評に説得力がある時です。
そういう意味では,私は受容理論,いわゆる読者論までは共感できるものが多いのですが,記号論以降は共感度が下がります。
理解力がないだけだろ。
そういわれても,そうかもねって感じです。
自分がその理論を使って,曲がりなりにも批評できるのも読者論までかなあ。
一番好きなのは解釈学です。
まあ王道ですね。
3 文学部唯野教授の構成
この小説は,文学批評理論の講義と大学教授の日常を交互に書いています。
日常の方は,まあ筒井さんらしいドタバタ喜劇なんです。
おもしろかったのは,講義の方です。
簡潔明瞭な説明で,各種の文学批評理論を説いていきます。
筒井さんらしいユーモアたっぷりな説明で分かりやすくおもしろかったです。
たぶん講義のネタ本といっていたイーグルトンの「文学とは何か」を読んでいる人は少なかったと思います。
つまり,背景を知らなくても理解できるくらいおもしろかったということです。
まあ,イーグルトンの方も分かりやすいんですけど、こちらに喜劇をついていませんから。
だけど,記号論以降はやっぱりおもしろさが薄れたかなあ。
元々がつまらないのかもしれません。
4 批評理論の対象
さて,批評理論は文学以外を対象にできるのでしょうか。
回答はYesです。
例えば構造主義の祖はレヴィ・ストロースですが,文化人類学者で西洋文明の影響を受けていない文化を研究していました。
批評ととらえれば対象は文化です。
つまり,これらの理論を使って,政治や社会情勢などの文化的なものを批評することは可能となります。
でも,ですよ。
そのように対象すべてが一定の手続きのもと批評され評価されると,どういうことになるでしょう。
価値の多様性は消えていく気がします。
批評理論は,分からない人の手引き以上のものではないのでしょう。
批評理論は,その存在意義が価値の限界にもなっていると思います。
5 解釈学で思うこと
解釈学というか解釈という活動は何を対象としてきたか。
聖書だそうです。
神の意思を探ったのですね。
そしてそれは法律にも援用されました。
法律の具体化の限界が必要だったからでしょう。
つまり,書かれていること以上のことを知りたかった。
そして知ったことを共有してもらいたかった。
だから学問が必要だった。
う~ん,必要性は分かるけどって感じですね。
批評理論は,みんなに支持されないと存在できないのかもしれません。
なんか生い立ちに不幸を感じます。
6 理論は対象を超えない
文学部唯野教授はおもしろい小説です。
この小説の源泉の一つに批評理論があることはまちがいありません。
でも,多くの批評理論は,批評対象を生み出したりはしませんでした。
対象を超えることはなかったのです。
そういった意味でもこの小説は奇跡だと思います。
読んだことがない人に,ぜひおすすめします。
難しく構える必要はありません。
エンターテインメントです。