僧侶と評論家の対談本です。
僧侶は小池龍之介さん、東大を出て出家した異色の経歴の持ち主です。
評論家は宮崎哲哉さん、一時期よくテレビで見ました。
テーマはさみしさです。
心の安定に大きく関連するテーマと思いました。
対談は、孤独とは何かから始まりました。
人は他人を求める、愛されたいと思う。
それが十分じゃないときにさみしさを感じるといいます。
つまり、相手によってさみしさが満たされる。
こういうことになります。
しかし、対談では、これを真っ向から否定します。
その満足は、幻想でありファンタジーであるといいます。
恋人がいても孤独に変わりはない。
人はそれに満足することはない。
こういう仏教的な考えが示されます。
もちろん、人間は原理的に孤独であるということは、それ自体は問題になりません。
問題は、そこにさみしさを感じることなのです。
孤独であることとさみしさを感じること、これは別のことである。
では、さみしさを満たすものは何なのか。
これが一つの結論となりました。
この疑問の答えについての含みを持たせながら、次の話題へと移りました。
次の話題は、さみしさは現代病なのかです。
どうもそうではないことが示されます。
さみしさは、人間に普遍的につきまとう問題のようです。
ただし、SNSで簡単に承認欲求が満たされる現代では、さみしさを感じる機会が増えています。
それゆえ、この問題が顕著に現れているといえるようです。
さみしさをうめるというのは、欲望の一つでもあります。
欲望ゆえ、どこまでも飢えを感じます。
この解決には、「足るを知る」ことが大切なようです。
やはり仏教的な考えが示されました。
最後に、さみしさは必要なのかを話し合っています。
必要かそうでないかと問われれば、必要となるでしょう。
しかし、さみしさにとらわれる必要はない。
そういうことだと思います。
世界は意のままにならない。
こういう現実があるから、さみしさを感じるのでしょう。
しかし、意のままになると思っている自分すら、実は意のままにならない。
これが現実です。
こういう認識にたったとき、何をさみしいとするのか。
そのさみしさをうめてくれるものは何なのか。
他人にすがる弱さが残るのでは、それこそさみしいばかりです。
結局、精神の自立について考えることになりました。
この本は対談形式で読みやすいですし、さみしい気持ちを持ちがちな方に読んでほしいと思います。
自分の感情を見つめ直す機会になると思います。