ギスカブログ

釣り・読書・ウクレレ「ギスカジカ」のブログ

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折り鶴について考えた

 折り鶴について,2ちゃんねる創始者ひろゆきさんの発言が話題になっていました。
 折り鶴については,以前から思っていたことがあったので,考えを話したいと思います。

 ひろゆきさんの発言は,おおよそこのようです。
 折り鶴をウクライナに贈る方がいる。
 ウクライナの方は折り鶴をもらっても仕方がない。
 処分に困る。
 ほしいのは,食料であったり避難に必要な物であったりする。
 折り鶴を贈る方は,贈られた方の思いよりも自分の思いが大事なのだろう。
 正確ではないかもしれません。
 この要約は私なりのものです。

 私は,折り鶴が贈られた経験があります。
 東日本大震災の時です。
 大量の支援物資が贈られました。
 多くの方々には感謝の気持ちを持っています。
 そして,私は贈られた支援物資の整理する係でした。
 仕分けをしたり配ったりする係です。
 正直にいえば,仕分けに困るものもたくさんありました。
 古着や古い学用品などです。
 誰ももっていきません。
 いつまでも残っていました。
 そして,折り鶴,手紙,寄せ書きなどもありました。
 日本中,世界中の人が応援している。
 そのことを伝えるために飾りました。
 しかし,それも限界があります。
 飾れる場所も限られるからです。
 飾らないわけにはいかないので,どこか見つけて飾りますが,それでも限界はありました。
 そして,お礼の手紙を被災者にお願いもしました。
 飾った鶴と被災者を写した写真と手紙を贈りました。
 少ないうちはいいですが,繰り返されるとまたかという気持ちが生まれます。
 もちろん,自分の仕事もあるし家の仕事もあるしそんなことに時間を割きたい人は多くありません。
 人のよい方が何度もすることになります。
 こういうことが繰り返されたのでした。

 折り鶴を見て元気がでたという方は,限界を超えていないのだと思います。
 まだ人の気持ちを受け取り,それに返す余裕があるのだと思います。
 ものには程度がある。
 それがあの時の私の偽らざる気持ちでした。

 普通のプレゼントを考えれば分かると思います。
 贈られて困った物って,誰にでもあるのではないでしょうか。
 捨てるに捨てられずという物です。
 相手が喜ぶことをする。
 それが贈り物だと思います。

 スーパーボランティアの尾畠さんは,ボランティアは被災地の世話にならないとおっしゃっていました。
 だから寝るところも食べ物も自分で用意してるのだそうです。
 相手もことを本当に思っている,そして困っている人の現実をよく分かっている。
 そういう方の発言であると感心しました。

 折り鶴を贈る方の純粋な気持ちを否定するつもりはありません。
 その人は相手のことを本当に思っているのでしょう。
 だからといって,贈られた人がそれをそのまま受け取るとは限らないのです。
 相手が喜ぶことをする。
 それが大事だと思います。
 こういう話は,善意を否定するかのように見えるのでなかなか話題にすることは難しいと思います。
 でも,こういう形であっても話題になったことは,私はよかったと思います。