ギスカブログ

 読書しながらスモールライフ「ギスカジカ」のブログ

終戦の日と「一つの花」の主題(ネタバレ)

もう8月17日になってしまい、終戦の日から2日経ちました。

なのに終戦を取り上げるのは、童話「一つの花」を読んだからです。

教科書に載っている童話です。

以前その虚構性の程度について述べましたが、今回は別の点から話したいと思います。

「一つの花」の主題についてです。

さて、この話は、終戦前後を舞台としています。

この作品は、平和の大切さを表現した童話という評価がありますが、少々違和感を感じていました。

「一つの花」のあらすじはこうです。

太平洋戦争末期、父、母、ゆみ子の三人家族は慎ましく暮らしていましたが、戦況の悪化から食糧不足となりました。

ゆみ子には「一つだけちょうだい」という口癖がありました。

こういえば食べ物をもらえたので身に付いたのです。

こんなゆみ子を父母は不憫に思い、将来を心配するのでした。

ついに父に召集令状が来て、出征することになりました。

旅立ちのホームでゆみ子は「ひとつだけ」と食べ物を要求します。

少しばかりの食べ物は、駅までの道中ゆみ子が食べてしまい、もうありません。

どうしようもなくなった父は、ホームの端に咲いていた一輪のコスモスをゆみ子に手渡します。

花をもらったことで落ち着いたゆみ子を別れ、父は旅立ちます。

ゆみ子の手にある一つの花を見つめながら。

まあ、こんな感じの話です。

先に述べましたように、平和の大切さとか親子の愛情とかが表現された作品ということで、高評価を得ている童話です。

ごりごりの平和教育推進派からは、花を投げ捨てさせ食べ物を要求する娘を描く方が、より一層戦争に非人間性を表すことができたのに、という批判もあります。

後は、まあ私が前に書いた虚構性についての批判、最初に覚えた言葉が「一つだけちょうだい」は不自然だろうとか、駅に着くまでにおにぎりを全部食べたのだからホームでの「一つだけ」はわがままだろうとか、そんなのもあります。

二つ目はともかく最初の批判は、平和の大切さを表すための作品であるといういわば主題優先主義から生じる主張でしょう。

とはいえ、童話は説話や訓話ではないのですから、作品は主題の道具ではありません。

主題に表現を合わせているわけではないのです。

童話は何よりも、童話そのものを味わわないと、と私は思います。

そういっておきながら、ここから自分の感想を話すのですが、全面的に作品を肯定しているわけではないので、お前も同じ穴の狢だろう、といわれるかもしれません。

それでも、ちょっと話したいのです。

このお話は、親が子の幸せを思う気持ちを表した作品だと思います。

平和主義というのは、そういう要素があることはあるのですが、中心ではないでしょう。

どういうことかというと、この作品における戦争は、舞台装置、つまり設定だからです。

極限の状況であれば、戦争でなくとも構わないのではないか。

そう思えるのです。

江戸時代だったら飢餓とか、中世ヨーロッパだったら伝染病とか、あるいは自然災害でもいい、要するに人間性が失われそうな舞台が設定されれば、このお話は成立します。

そんな悲惨な状況でも、花を喜ぶ気持ちを失わないでほしい、そういうことが表現できればいいのではないかと。

こう感じました。

この作品における重要な設定である食糧危機に関しては、総力戦で極限まで国力を戦力に振った結果起きたことで、あらゆる戦争でこのような状況が起きるわけではありません。

日本という資源に乏しい国が、近隣に友好国も貿易できる国もない状況で、戦争を継続したことにより起きた状況です。

確かにあの戦争により起きたことではありますが、どの戦争にも当てはまるものではないでしょう。

また、作品中に父母が戦争を憎む表現はありません。

嘆く場面はありますが、時代の状況として受け入れているようにも読み取れます。

つまり、そういう状況における庶民に生じた不幸を舞台装置としているのですね。

同じように庶民の不幸を描いたものに「火垂るの墓」があります。

この世界の片隅に」もそうでしょう。

これらの作品に日本の庶民は共感しますが、中国・韓国の方々は批判的なのはご存じの通りです。

それらの批判を全面的に受け入れるのも違うと思いますが、大きな枠組みでの戦争を表現していないといわれれば、その部分はその通りです。

戦争を論じている作品ではないのですから、ある意味当然ではあります。

さて、つまり何をいいたいかというと、「一つの花」を戦争反対・平和主義という視点からのみ解釈するのは難しいんじゃないか、ということです。

舞台がそうですからそういう要素は強いのですが、中心は親の愛情でしょう。

そう思います。

さて、終戦の日が過ぎましたが、自分の子供の頃に比べると終戦とか戦後とかの扱いが軽くなっているように感じます。

子供の頃は、まだ戦争体験者が現役で、社会の中心となっていたからなのかもしれません。

平和主義は、もちろん時代を超越して重視すべきことです。

しかし、太平洋戦争という強烈な経験が、それに関わるあらゆるものの解釈に強い影響を与えていたのかもしれません。

「一つの花」の解釈や評価もそうだったのかもしれない。

そんな風に思いました。

一つの物語の解釈とは別に、戦争を避け平和を愛することはとても大切だと思うのですが。