寓話,説話が好きでした。
あんな単純な話が。
そうとられても仕方ありません。
しかも多くは説教くさい。
しかし,そういった周辺部分も含めて説話・寓話がおもしろいのです。
今回は,説話・寓話について話します。
1 諸子百家
私が説話・寓話に興味を持ったのは,史記からです。
それ以前にも,説話・寓話を読んでいたのですが,ジャンルに興味を持つことはありませんでした。
史記・戦国策などなど中国の古典で,遊説の徒が諸侯に説いているのがおもしろかったのです。
例えば,鷸蚌の争いなどは情景を想像するとばかばかしくなります。
ハマグリがシギをくわえてるんですよ。
これを王様に話すわけです。
そして王様が納得すると。
こうなるわけです。
なんでやねん。
高校生の私は,つっこんでいましたね。
それで,なぜこんな話をしたのかを考えたわけです。
想像ですが,君主とはいえ教養があるわけではありません。
学校教育が当たり前の現代とは異なります。
そして,興味をもって聞いてくれるとも限りません。
あきてしまう可能性は強いでしょう。
そして,法整備がなされているわけではありません。
君主の勘気にふれたら命の保証もない。
というわけで,分かりやすく興味がもてるたとえ話をしたのでしょう。
こういうこの話をしている状況を想像すると,またおもしろさが格別なのです。
おそらくたとえがすべっていることもあったでしょう。
つきあいで聞いている君主もいたに違いありません。
話のおもしろさが中心ではあるのですが,そういうことを想像すると何ともいえないおもしろさを感じるのです。
2 野生の美しさ
芥川龍之介さんが説話集を好んだのは有名です。
野生の美しさがあると評しました。
その美しさとは何か。
「羅生門」にしろ「鼻」にしろ,そこにある教訓ではないと思います。
そこで生きている人間の生き様がおもしろいのではないか。
そう感じます。
例えば,露悪的な下人の言い方。
例えば,人の目を気にする僧侶。
それら人物の感情の動き。
そういったものがおもしろさなのだと思います。
仏教説話におもしろさを感じないことが教訓に魅力を感じない傍証でしょう。
森鴎外の「山椒大夫」を読後感が忘れられません。
勧善懲悪,因果応報。
さまざまな価値観がある中で,最後の最後に出てきたのがこれでした。
観音様への信仰心。
なんでやねん。
たぶん読んだのは中学やそこいらだと思いますが,いつ読んだかどんな状況で読んだかは忘れても,つっこんだことだけは覚えています。
そんなに信仰厚い人たちだったら,さらわれないようにしてくださいよ。
ここにはおもしろさを感じなかったわけです。
野生の美しさ,というのは正確には分かりません。
でも,寓話・説話のおもしろいところは,人間くさいところにあると思います。
3 テーマと表現
さて,小説などの作品の評価にはテーマと表現の関連がつきまといます。
テーマが価値あるものだからといって,作品が価値あるとはかぎらない。
そういう問題があります。
寓話・説話はこのことが端的に表れると思います。
仏教説話のテーマは価値あるものでしょう。
でも,それだけでその寓話・説話が優れているとはいえない。
それとこれは別。
こういうことになると思います。
もちろんテーマそのものはくだらないものだけれども,作品はすばらしい。
そんなことはあり得ないと思いますが。
テーマをよりよく伝えるためにも,優れた題材や優れた表現が必要である。
この方が実感をもって理解できます,
実例も挙げやすいでしょう。
伝えるだけのテーマを持つことは大事ですが,それだけでは作品たり得ないのだと思います。
4 新しい寓話・説話
ところで,寓話・説話は古典的なものが主流です。
今日的に新しいものは生まれないのでしょうか。
君主にたとえ話をする,信者に教えを分かりやすく説く。
そういうシチュエーションが少ないのは事実でしょう。
しかしながら,新しい寓話・説話を読んでみたい気がします。
私がものを知らないだけで,どこかで生み出され続けているのかもしれませんが。
|
|