「これは片思いの話だなあ」
こうつぶやいた年配の方がいました。
物語の「ごんぎつね」についてです。
この言葉といっしょに「ごんぎつね」を今でも時々思い出します。
そのわけをお話しします。
1 ごんと人との関わり方
「ごんぎつね」は,ほとんどの小4の教科書に載っていますから,今さら解説は無用でしょう。
いたずらぎつね「ごん」の悲しい物語です。
もちろん,ごんは兵十に恋をしていません。
そんなことは,片思いとつぶやいた方も十分分かっています。
ごんは,いたずらの償いをしているのです。
まあ,償いだけではなく,同じく家族のいない兵十への仲間意識もあったと思います。
このごんの思いは,まったく兵十には伝わりません。
あんな不器用で一方的な伝え方をしていれば,そうなるのも当然です。
ですが,ごんの側に立ってみると,どうにもじれったくて仕方ありません。
この感じを「片思い」のようだと感じ取ったのだと思います。
聞いた当時,まだ若かった私は,(うまいこというなあ)と感心しました。
その以上の感想は持ちませんでした。
持てなかったのかもしれません。
けれども,数10年経った今でも覚えているということは,私の心の奥底にふれるものがあったのでしょう。
2 きつねと人間だからなのか
ある大学の先生から「これは異類の悲劇だ」という解説をうかがったことがあります。
この関係は,きつねと人間という運命的に結ばれることがない関係です。
であるからこの結末は,必然の結果ということらしいです。
昔話の題材によくある異類譚。
その一つとみれば,そうとらえることもできるのでしょう。
しかし人ときつねだから仕方ないでは,解釈があっさりし過ぎているように思います。
それだけのことを表すのに,あんなにいくつものエピソードを重ねることもないでしょう。
読者はごんに同情し,共感します。それは,思いを伝えることの難しさを日々の生活の中で誰もが感じているからです。
3 兵十にとってのごん
さて,視点を変えてこの物語をみるとどうなるでしょう。
もう一人の主要な登場人物である兵十の立場に立ってみます。
ごんの立場からみると,兵十の無理解や誤解が悲劇につながった,という解釈が一般的と思います。
本当にそうでしょうか。
また「恋愛関係」になぞらえてみてみましょう。
すると,ごんの行動はまんま「ストーカー」です。
勝手にプレゼントをし,どろぼう行為にもまきこんでしまう。
軽く見積もっても,迷惑行為であることはまちがいありません。
兵十にとっては,本当にいい迷惑だったと思います。
実際,好きでもない相手からこんなことをされたら気味悪さしか残りません。
思いを受け入れるという結末は,相当劇的なすばらしい出来事がないと起こらないと思います。
まあ,もし本当に恋愛だったら,何が起こるか分からないのが恋愛ですから,万が一,億が一のことが起きたかもしれませんけど。
しかし,これは恋愛ではなく「友情」です。
結末は絶交となるような気がします。
4 「ごんぎつね」を思い出すわけ
さて,人に思いを伝えることの難しさは,いつの時代でも変わりないと思います。
むしろ,令和となった現在,この難しさは強まっているように思います。ネットで調べれば,適切なやり方がすぐ分かる時代です。
それなのに思いを伝えることのハードルは,むしろ上がってきているように思えます。
知識があり過ぎて,行動に移れないということもあるでしょう。
ごんは行動しただけ立派ともいえます。
まあ,行動したからの悲劇なのですが。
私は,後数年で定年を迎えます。
そのためか,生活の見直そうと思うようなりました。
むだなものは捨て,シンプルに本当にしたいことに残りのエネルギーを注いで,充実した日々を過ごしたいと思っています。
そんな生活をスモールライフと称しています。
ここ数年は,人づきあいも浅くなってきました。
無理して人脈を広げようと思わなったからです。
とはいっても,大事な人には自分が伝えたい思いをきちんと届けたいと思っています。
そこを断捨離するほど達観してはいません。
しかし,そのことの難しさは,時代のためなのか加齢のせいなのか,年々増してきているように感じます。
「ごんぎつね」を時折思い出すのは,自分もごんのようにしかできないのではないかと思うためでしょうか。
不器用にしかできないでしょうが,せめてこのブログで読んだ方に,自分の思いを届けられたらと思います。
|