ギスカブログ

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知らない方の葬儀への参列

1 知らない人の葬儀

社会人になってから葬儀へ参列することが増えました。

知人が増えてないのに、葬儀への参列が増える。

社会人になってからの参列は、生前会ったこともない人の葬儀へが増えます。

なぜか。

働き盛りの方が亡くなることはまれで、働き盛りの人の親御さんやおじいさん・おばあさんが亡くなるケースが多いからです。

それで、そういう方の葬儀や通夜にばかり参列することになっていると。

こういうことです。

いいことではあるのですが、生前知っていた方の葬儀・通夜に参列したのは片手に余るくらいです。

ほとんどが生前知らない方の葬儀。

もう自分が人を呼ぶ方になりそうな年齢になりましたけど、知らない人の葬儀はやはり慣れませんね。

2 知っている方の葬儀で考えさせられたこと

もう10数年前になりますが、ある生前知っていたというかお世話になった方の葬儀に出て考えさせられたことがあります。

その方は、私が新人のころの同僚のおばちゃんで、気のいい方でした。

にこにこしていて、親切な方でした。

仕事は、まあまあ人に迷惑かけない程度に楽しそうにしてましたけど。

転勤になって、なんやかんやしているうちに家の事情か何かで定年前に退職したんですね。

健康上の問題じゃなかったと思います。

それで会うこともなくなったのですが、年賀状のやりとりはずっと続いていました。

今年も来たなあとちょっとした楽しみになっていました。

ですが、交通事故でお亡くなりになったんです。

驚きました。

葬儀がすぐ行けるところで行われたので、とりあえず通夜に参列したんです。

行って、また驚きました。

旦那さんがかなり地位の高い方だったんですね。

まったく知りませんでした。

それで、すごく多くの参列者がいまして、多くの方が旦那さんにご挨拶をしていました。

私は故人を知っているだけで、故人の家族は知りません。

それで、長い長い列に並んでご焼香をしまして、お茶も飲まずというか人が多すぎてはじき出された感じで外に出ました。

お別れはできたのでよかったのです。

でも、家族に故人のお世話になったお礼とかを話そうと思っていたのですが、それがまったくできずに終わりました。

不完全燃焼でした。

お義理で葬儀に行くのは、もうやめたいなあ。

帰り道、車を運転しながらそう何度も思ったのです。

まあ、社会生活上の義理があるので、現実全部行かなくするっていうのは難しいのですが、なるべく行かずにすむなら行かないことにしよう。

こう思ったのです。

葬儀が故人のためというよりは、生き残った家族のためにするということも、今ではわかるつもりです。

が、形式上死んだ方のための会なのにそんな会になってないことが多いように思いました。

死んだ時くらい主役にしたらいいのに。

ほんと、そう思ったんです。

おそらく、記帳したので私が行った記録は残っているでしょうけど、誰の記憶にも残っていないと思います。

私の持っていた故人の記憶はちっぽけなものだったかもしれません。

しかし、それを家族に告げることで故人のよさが記憶に残るのではないか。

そんなことを期待していたのですが、そういうことに価値がないような会だったのです。

自分自身の中で、葬儀の価値が暴落したのでした。

このこともあって、私は年賀状のやりとりも少しずつ減らし、今ではほとんど誰とも交換しなくなっています。

ある意味、自分の人づきあいの考えが変わった出来事でした。

3 今では

同僚の義理の祖父がなくなったとの連絡が回りました。

というか回しました。

今度も、代表が行くというのでお悔やみを頼みました。

もちろん、亡くなった方について何一つ知りません。

身内が亡くなって悲しむ同僚のために行くという意義があるとは思うのですが、それはやはり本筋とは違うような気が、参列に出向く気持ちを弱くするのです。

そうなんです。

こういうことに気持ちが動くということが少なくなってきました。

しかし、これは人情が薄くなったということとは違うような気がします。

田中角栄は、葬儀は取り返しがつかないから必ず弔意を表したそうですが、それは時代や地域の文化の中でのことであって、普遍性はもたないのではないでしょうか。

故人をしのべる人がしのべばいい。

そういうシンプルな考えに至ったのだと、自分では思ってます。