家の近くで解体工事が行われています。
土木工事関係の事務所です。
この事務所は宿舎も併設されていて、2階建ての大きなものでした。
朝、近くのコンビニにご飯を買いにいく車があり、人の出入りも多かった建物です。
夏ごろに駐車場の車がなくなったので、事務所を閉めたのかなと思っていたのですが、大当たり。
先週から解体工事が始まったのでした。
鉄筋のモルタルでしょうか。
ユンボを使って日に日に壊されていきます。
鉄心やステンレスの屋根などがまるめて置かれていました。
諸行無常を感じます。
維持するよりも壊した方が経費の節約になるのでしょう。
分かってはいますが、郷愁のようなものを感じます。
思えば、震災後はいろいろなものが作っては壊されていきました。
一番印象に残っているのは、焼却炉。
小さいものではありません。
サイクロン式で煙突の高さは10mを越えていたと思います。
焼却炉の周りは分別場があり、さながら工場でした。
バスに乗って見学したものです。
地域への理解を深めるためのバスツアーだったと思います。
敷地内には余熱を使ったお風呂もあり、地域の住民に開放していました。
これは、震災で出たゴミやがれきの可燃物を燃やすためものです。
3年目くらいまで稼働していましたが、がれきがなくなるとお役御免。
解体されて、元の田んぼになりました。
この田んぼは結局利用されないところが多く、畑やビニールハウスに変わっていきました。
また、道路は何度も付け替えられました。
交通を止めるわけにはいかないので、かさ上げをしたり防潮堤を作ったりする度に付け替えをしていたのです。
付け替える度に、アスファルトが剥がされます。
非常にもったいない気がしていました。
この道路付け替えは、まだ続いています。
もう少しだけ、防潮堤が完成するまで続くことでしょう。
そうそう、防潮堤の工事がほぼ終わったので、工事関係の事務所や宿舎もいらなくなったのです。
だから解体です。
仕事を受注したのが地元の企業ばかりではなかったので、こういうことになっているのだと思います。
近所には、工事関係者の宿泊をねらったビジネスホテルも作られました。
宿泊といえば民宿だったこの地域にです。
駐車場を見ると、車もまだあるので利用されているのでしょう。
だいぶ減ってきてはいますが。
しかし、ここも工事が終われば必要なくなります。
あれも解体するのかな。
寂しい感じが強まります。
工事といえば、この津波後に変わったことがあります。
川の護岸工事です。
私の子どものころは、小河川の河口に水門がありました。
コンクリートと分厚い鉄板でできた、立派な水門です。
大きい川はさすがに河口が広すぎて作れなかったのでしょうが、小さいところには必ずありました。
津波の前に水門を閉めて、水を防ごうとしたのでしょう。
津波が川を上ることは、前から知っていたのです。
しかし、河川の工事が終わってみると、水門はなくなりました。
どこにもありません。
例の津波の時は、あまりに規格外の波のために、水門を閉めても何の効果がなかったのでした。
なので、もうやめたのかもしれません。
代わりに、川の両岸の土手をこれでもかというくらい高くしています。
川からあふれさせないという作戦に変えたのでしょう。
護岸が高くなったため、川を越える国道はみんな急坂になっています。
それに、川が遠くなりました。
私は釣り人なので残念に思いますが、地域の人と川とのふれあいはなくなると思います。
防災第一なのは分かるのですが、川遊びする子どもが確実に減ることでしょう。
事務所の解体工事はどんどん進み、とうとう駐車場のアスファルトまで剥がしはじめました。
借りた土地を原状回復して返却するのかもしれません。
ここは元々田んぼでした。
ですが、今さら田んぼや畑にするとは思えません。
荒れ地、空き地。
そんなところに変わるのでしょう。
今年度で国の負担による防潮堤の工事が終わり、来年度からは地方自治体の負担で工事が継続されるとのことです。
しかし、地方は負担するにも金がありません。
なので、終わっていない工事のところだけ終わらせて、新規の工事はなしになるでしょう。
震災は確実に昔話になります。
震災後、若者が定着しなくなり、子どもも少なくなりました。
中高年だけのまちとなっています。
そうして、ぱらぱらと人が住む地域になっていくのでしょう。
震災直後、復旧だ、いや復興だと、未来を語る議論が多くありました。
現在、それらの威勢のいい議論が行われることはありません。
おそらくは、明るくない未来が現実となってきたからでしょう。
近所の事務所の解体工事。
何のことはないこのことが、震災復興の時期が終わったことを私に告げました。
新しい時代の到来ですが、まったくわくわくしません。
夕日を見ているような気分です。
夕日ほど、美しくはないのですが。