「逆境に生きる子たち」を読み進めていて,気になる箇所がありました。
「怒り」について述べている部分です。
「怒り」という感情は誰しもが持っているものですが,肯定的に語られることが多くありません。
一般には否定的に取り扱われます。
しかし,逆境を乗り越えたスーパーノーマルたちにとって,「怒り」は役に立ったのでした。
このことについて,考えて見ます。
そもそもですが,「怒り」は何のために存在しているのでしょうか。
不正義が行われていた時,自分が不当に扱われていた時,どうしても許せないものがあった時,私たちは「怒り」を覚えます。
表情も攻撃的なものに変わります。
これはなぜ生じるのでしょうか。
もし,「怒り」を生じさせたものに対して,何かをしなければならないとしたら,冷静に行った方が確実にやり遂げるでしょう。
感情的になるほど,うまく遂行できる可能性は下がります。
そうであれば,「怒り」は不安要素でしかなく,存在意義もありません。
なのに私たちは「怒り」ます。
どのような意味があるのでしょう。
それは,何かを成し遂げるための活力,エネルギーを引き出すからです。
「怒り」は,行動を促します。
だからこそ,「怒り」という感情があるのです。
逆境を乗り越えたスーパーノーマルは,「怒り」でエネルギーを引き出しました。
本では,事例として「いじめ」を取り上げています。
「いじめ」は「怒り」の使い方を説明するのに適した題材だからでしょう。
しかし,他の題材で在っても本質は変わらないと思います。
行動に表さなくとも,スーパーノーマルたちは逆境を認めたりはしませんでした。
それが不当であると言葉で述べたのです。
あるいは声にしなくとも,心の中で決して認めないと思っています。
このことが精神を強くし,逆境と長い時間戦うことを可能にしました。
そして,自分の人生を取り返すことになったのです。
しかし,です。
「怒り」を表したがために,人生で失敗してしまった人は多く居ます。
「怒り」は決して成功だけを呼び込んでくれるものではありません。
その成功と失敗は,どこで別れたのでしょうか。
それは,怒る対象にあったのではないかと思います。
人に対する怒りは,失敗を呼びます。
なぜなら,打ち勝ったところで恨みまではいかなくとも,その人によくない感情を残すからです。
その人の「怒り」を引き出してしまいます。
怒りを向ける対象は,人ではなく物事です。
逆境という事象そのもの,それに対する「怒り」です。
こうすることで,自らのエネルギーを引き出すとともに,人の「怒り」を浴びることもなくなるのです。
実際,多くのスーパーノーマルはそうしてきたのでした。
少年マンガや時代劇,多くの勧善懲悪ものでは「怒り」分かりやすい指標です。
主人公はそうして闘志を燃やし,相手に向かっていきます。
しかし,虚構の中の敵は倒せば二度と現れることはありません。
永遠にさようならです。
しかし,現実社会ではこうなりません。
明日も明後日も顔を合わせることがあります。
そして,和解するとも限りません。
だからこそ「怒り」の感情は否定的に扱われるのです。
ではあっても,大きな活力を生み出す「怒り」を使わないことはありません。
どうやってうまく使うか。
それが大切なんだと思います。