2回続けてがっかりの報告です。
多少なりとも精神分析の理解が得られるかと思ったのです。
全く理解できませんでした。
どうしてそうなったのか。
理解できないなりの感想を述べます。
いろいろ思うところがあるのですが、典型的な例を出します。
途中数式が出てきます。
心理学で数式とは珍しいです。
それで何を表しているのかというと、分かりません。
分数です。
分母は他人と自分の和です。
人数かどうかも分かりません。
分子は自分です。
それでこの簡単な代数式を展開していきます。
結果黄金数が求められると。
これ一体なんでしょう。
そもそも単位が分かりません。
単位が異なるものを加減してはいけないと思うですが。
そういうことはおいておいて、なぜか式の展開が進むのです。
そして、これが黄金比であるという結論が導かれます。
私が理解できないだけなのでしょうか。
まあいいとは決してならないのですが、百歩譲ってその黄金比だか黄金数だかがあるとして、それが精神分析のどこに役立つのか分かりません。
一体全体何がしたいのでしょう。
私の混乱は、本書が文字上述べていることが分からないのではなくて、この論述の存在意義がまったく分からないことにあります。
誰に向けた論なのでしょうか?
これが典型で、後は似たり寄ったりの感想です。
また、精神分析学会が分裂しようが、ラカンが孤独になろうが、そんなことはどうでもよくて、学説が意味不明なのに、人生語られても混乱するだけです。
パリの高等師範学校で講義の場を与えた、レヴィ・ストロースがラカンの講義を聴いてまるで分からなかったというエピソードが載っていますが、たぶん誰が聴いてもそうなんだろうなあと思うだけです。
さて、そんな私の本書の理解をまとめるとこうなります。
夢に象徴的現れたものの解釈を通しての自己理解、自己を含めた他者の視線による自己理解についての本である。
上記の一文ですが、自分で書いていて何をいっているのか分かりません。
でも、本書も全文こんなイメージです。
さて、ラカンの周りには精神分析家よりも思想家が集まって来たそうです。
それはそうでしょうね。
実践家が集まるとは思えません。
私は精神分析学は治療としての価値があるのでその存在価値を認めています。
針治療やお灸のようなものです。
臨床から離れた精神分析学はただの衒学です。
「戯言」でさえあります。
私ががっかりしたのはこんな理由です。
精神分析学は客観的ではないが、その後の多くの学問的な創造性を高める役割を果たしたとどこかで聴いたことがあります。
その創造性って具体的に何の役にたったのでしょうか。
そういう疑問も生じました。
心理学は現実や事例から離れてはいけないと思うのです。
心という元々つかみにくいものを対象としているのですから。