1 はじめに
図書館でアドラー心理学の本を読んで以来,アドラーへの興味が高まりました。
それで,またかの図書館に赴き,アドラーの本を読みました。
今回読んだのは,「幸せになる勇気」です。
前回読んだ「嫌われる勇気」の続編になります。
ネタバレになりますので,ご注意を。
2 教室という現場
今回も青年と哲学者の対話で進みます。
青年は教師になっていました。
アドラー心理学に基づく実践の熱意に駆り立てられ教職に就いたようです。
しかし,挫折しアドラーの教えは絵空事との認識に至ります。
そのことを哲学者にぶつけるために対話にいどみます。
この構成は,おもしろいと思いました。
教室という現場で一つの理想がどう実現するか。
心の持ち方で,問題は解決するのか。
様々な現場がありますが,教室を選んだのがおもしろいと思います。
誰もが生徒として体験している場です。
具体的に理解が進むはずです。
3 叱りもしない,ほめもしない
青年が最も否定したことがこれです。
結果,教室は無秩序となりました。
青年は気の弱いやつと生徒に思われています。
青年は,自分が思わず称賛したことで生徒が変わったという経験をします。
その事実が,ほめること・叱ることの効能を彼に感じさせます。
このことを哲学者がどう思うか。
ここが一つの論点だと思います。
4 価値は自分で決める
哲学者はほめることは,価値や判断を他人に委ねることだと語ります。
そして,それは競争につながると。
競争は協力を妨害することになると。
こう展開しました。
ここで私は「恋する寄生虫」の佐薙を思い出しました。
他人の価値を自分の価値と自覚的に受け入れた場合はどうなんだろうと。
ここが分かりませんでした。
まあ極論ですが,堕落する自由を認めろっていうことにつながります。
さて,青年の立場に立ってみましょう。
教室だけじゃなく会社でも地域社会でも同じだと思うのですが,他人の成長が待てない状況ってあります。
そして,ほんとに成長するかも分かりません。
成長ではなく変化でもいいのですが,それを期待してほめることはあると思います。
成長って言葉を使っていることが,私がある基準で他人を評価しているじゃないか。
上から目線だ。
と,こういう批判はあると思います。
しかし,ほめたからといって変わるかどうかは相手次第です。
ほめられたことを受け入れるかどうかは相手に任せていいんじゃないでしょうか。
やっぱりダメなのかなあ。
一方現在,世の中的には,叱るは大否定でほめるは大肯定です。
子育ては,ほめて育てる。
もう常識になっていますね。
哲学者がいうには,自分の価値を認めるのは自分,そして他人は存在するだけで価値がある尊敬の対象と。
理念は分かるんですが,この認識に至る里程が現実には必要なんじゃないかなあ。
叱るけなすはなくなってほしいのですが,ほめるがなくなった社会が想像できませんでした。
5 最後に
ここから幸せにつながる話に変わっていくのですが,どうもここで引っかかってしまって進めませんでした。
う~ん。
よく考えて見ると,他人をどうするかは私の問題意識にはありませんでしたね。
自分が,自分の生活をどう生きるかが主問題なのでした。
まずは,自分で自分を判断できるようにするのが問題です。
叱るけなすを他人にするのは問題外です。
ですが,称賛が自然に出るのは止められないなあ。
アドラーの考えには,これはちがうと切り捨てられないところがあります。
もう少し考えていきたいと思いました